沖永良部島について
どこにあるの?
沖永良部島は、鹿児島から沖縄、台湾へと連なる南西諸島のほぼ中央、奄美群島の南部に位置します。鹿児島市から南南西約540km。行政区分は鹿児島県に属します。晴れた日には、北に徳之島、南に与論・沖縄が見渡せます。島には、和泊町と知名町の2つの町があり、和泊町は島の北部に位置します。鹿児島からは空路、航路ともに毎日定期便があり、船では約18時間、飛行機では約90分程です。沖縄までは定期船で約6時間。空路は現在チャーター便のみで、定期便の就航はありません。
島の自然
島の周囲の海岸線は、隆起サンゴ礁からできたごつごつとした岩肌がむき出しになった岩礁の間に、小さな白色の砂浜が点在し、ウミガメの生息地、産卵地となっています。冬から春先にかけては、周辺海域でクジラの回遊する姿も確認できます。また、近海は、ギンガメアジなど巨大魚の群れが観察できる国内でも貴重なダイビングポイントとしても知られています。島内で最も高いのは、知名町にある大山(標高240m)ですが、和泊町には越山(標高188.6m)があり、山頂の展望台からは、島の北端国頭岬まで一望することができます。島の地下には網の目のように無数の鍾乳洞が存在し、国内最大級の水鏡洞を始め、前人未到の洞窟も多数存在し、近年“ケイビング(洞窟を巡るスポーツ)スポット”としても注目を集めています。観光向けに整備された昇竜洞(知名町)もあり、気軽に地底の神秘を味わうことができます。
島の歴史と文化
島の歴史は、先史時代にまで遡ります。島内の遺跡からは、縄文期の遺品が出土しており、古代から人々が暮らしていたことが確認されています。発掘された遺品からは、大陸から琉球を経て薩摩、大和へと続く通商経路「海の道」の重要な通過点のひとつとなっていたことが明らかとなっています。その後、14世紀ごろには琉球北山国の勢力に組み込まれ、この時期、島を統治したとされる「世の主」(琉球北山王の子とされる)の伝説が残されており、その墓などの遺跡は、琉球王国時代の様子を今に伝えています。また、島の言葉や唄、踊りなど、民俗文化の基礎はこの時期に形成されたと考えられています。特に民謡の音階は、徳之島以北の裏声を使った音階に対し、沖永良部の民謡は琉球音階で唄われていて、沖永良部が琉球文化と大和文化の境界にあることを物語っています。
「敬天愛人」発祥の地
慶長14年(1609年)、薩摩の琉球侵攻によって、沖永良部の琉球統治時代は幕を閉じます。琉球に代わって島を統治した薩摩藩は、遠く離れたこの島を流刑地として位置づけました。文久2年(1862年)、この島に島津久光の逆鱗に触れ流されて来たのが、明治維新の立役者である西郷隆盛(当時の名は「大島吉之助」)でした。壁もない吹きさらしの過酷な牢生活から翁の命を救ったのは、島役人の政照が築いた座敷牢と島の人々の温かい思いやりでした。西郷は、鹿児島に呼び戻されるまでの1年6か月の間、子供達には読み書きを、役人には施政の方策と心構えを教え、飢饉に備えるための共済制度である社倉法を伝えました。また島役人が所蔵していた和漢の書籍を読み、座禅を組み、西郷の思想の核とされる「敬天愛人」の基礎を築いたともいわれています。今も島を代表する民謡サイサイ節には、西郷翁と正照の交流を唄った歌詞が唄われています。