えらぶゆり生産のあゆみ
【第1回】えらぶゆり生産のあゆみ
沖永良部島の「えらぶゆり」生産のあゆみ
テッポウユリは、南西諸島から琉球列島に広く分布する純白で香りの高い清楚な花で、国内外で切り花・鉢もの・花壇用等として栽培されています。
野生のゆりを栽培し、「えらぶゆり」として特産品化して、沖永良部島の経済や教育文化を始め、人材育成にも影響を及ぼしたとされる「えらぶゆり」の歩みをご紹介したいと思います。
我が国のゆりが欧米に紹介されたのは江戸時代で、純白のゆりの花はキリスト教の聖花として貴ばれています。
明治6年、日本のゆりは、オーストリア万国博覧会に出品され欧米の人々に高く評価され、これを契機に日本のゆりの輸出が増大し近年まで続いていました。
当時、欧米の貿易商たちは、日本各地の珍しい植物を求め、プラントハンターとして活躍していました。
その中の一人が英国人のアイザック・バンティング氏です。
明治31年、喜美留の海岸端に自生しているゆりを見つけ栽培を奨めたのが「えらぶゆり」の始まりとされています。
当時、我が国からは、横浜居留地周辺のヤマユリやカノコユリが盛んに輸出されていましたが、テッポウユリも関東や九州等各地の黒軸系ゆりが扱われていました。
南西諸島のゆりは本土産に比べ草姿が優れており、また一番の特徴は開花が早いことであり、欧米では、クリスマスに開花させることのできる産地として絶大な人気があり、奄美の島々でゆり生産が盛んとなっていました。
なかでも沖永良部島では先人たちの旺盛な研究心と栽培に対する熱意で、系統選抜や栽培技術改善が図られ、他の島とは違う産地形成が図られていきました。
当時の交通網、情報網の未発達な時代に、沖永良部島のゆりを商品作物として生産し、販売していく為には並大抵の苦労ではなかったかと思われます。
また、輸出されたゆりは、温室栽培により切り花になって始めて価値が上がる商品であることから、世の中の経済事情等に大きく影響されました。
更に、市場動向により価格も大きく変動することから、優良品を生産するだけでなく、販売体制、需要供給のバランスを保ちながら生産することが重要であり、ゆりを通して種々の状況に対処する知恵を付けてきました。
私が和泊町役場に勤務した昭和47年は、我が国の高度経済成長期真っただ中で、ゆりを取り巻く情勢が大きく変化している時代でした。
次回から、当時ゆり関係の仕事に係り、現場で体験したことを年代ごとに記述していきたいと思います。