えらぶゆり生産のあゆみ
【第2回】昭和40年代のえらぶゆり球根の生産状況
昭和40年代のえらぶゆり球根の生産状況
第2次世界大戦前まで欧米の国々に輸出されていたえらぶゆりは、戦争によって輸出が途絶え、栽培も禁じられていましたが、先人たちは秘かに種球を守り、戦後すぐにゆり球根の生産を始めております。
戦後、奄美の島々は日本と分離され米軍統治下におかれ本土への渡航ができなくなりました。その中でゆり生産を復活させ、昭和24年、米軍政下で輸出が再開されております。
奄美群島が日本復帰した昭和28年以降、欧米でゆりの需要が高まり、ゆり増産に拍車がかかり、生産量が増大していきました。
昭和40年代は、我が国が戦後復興を成し遂げ、急激な経済成長に伴い、社会全体が大きく変化してきました。
経済成長により地方から都会への人口流出が進み、食料品の需要増大と併せ花の消費も増大していきました。
えらぶゆりも戦前までは、欧米諸国への輸出商品として栽培されていましたが、国内の切り花産地からも温室栽培用切花球根の需要が増大し、大量生産体制に移行していきました。
また,本島の農業も大きく変わっていきます。
我が国のコメの過剰により、水田転換が進められ、需要の増大していたさとうきびの増産が図られ、同時に、大都市向けの輸送野菜や肉用牛子牛の需要増大等、従来の自給的生産から換金性作物生産へと農業構造が大きく変わっていきました。
更に、奄美大島特産の大島紬の需要が高まり、大島紬の機織りも盛んになっておりました。
限られた労力で生産拡大に対応するため、土地基盤整備が進められ大型トラクターが導入され農業の機械化が推進されていきました。
ゆりの生産も規模拡大が図られ生産量も飛躍的に伸びていきました。
ゆりの品種もこれまで野生種からの選抜や種苗商社からの導入種が中心で、「アンゴー」「佐伯30号」「植村青軸」「殿下」「城山」等、多数の品種が栽培されていましたが、昭和29年アメリカから導入された「ジョージア」と昭和40年福岡県の中原喜右衛門氏が育成した「ひのもと」が導入され、輸出用、国内用として栽培され、えらぶゆりの二大品種として生産拡大が図られていきました。
次回は、急激に増産されたゆりに発生したトラブルやその改善策等について、記述します。
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