えらぶゆり生産のあゆみ

【第4回】ゆりの販売体制について


ゆりの販売は、もともと生産者個々が商人を通じ販売していましたが、生産が増えるに従い生産や販売体制の組織化が図られるようになりました。
基本的には商社との専属グループ制でありましたが、全体的には、生産組合と商社組合の、両組織が協力しながら発展してきたと考えます。

ゆり取引の大きな特徴として、①えらぶゆりの商品は球根(種)である。②沖永良部島が遠隔離島である事が挙げられます。
球根生産は天候に左右されやすいことや球根の大きさによって用途、需要が異なります。また,離島ゆえ交通面のハンディーがありました。このような条件の中で、安心して生産し代金回収の出来る仕組みを先人たちは築いてきました。

太平洋戦争後復活したゆり取引は、米軍政下で本土への渡航が自由にできなかった時期、価格を電報で連絡し合い、1ドル360円の公式レートでエルシー取引が行われました。
この取引は、最近まで供託金制度としてゆり取引の基本でありました。

また、昭和26年から輸出貿易管理令による輸出品目として承認され、輸出振興が図られました。
更に、日本復帰後の昭和29年から価格協議会も輸出百合根中央会の主催で東京の参議院議員会館で行われております。
協議会には農林省、通産省、鹿児島県が立ち合う中で行われていました。

積荷写真02

船積みの様子(昭和47年) 当時は、港湾も未整備でゆりは箱詰め後、チャーター便の貨物船で主に横浜港に船積みされていた。

積荷写真01

船積みの様子(昭和47年)

昭和37年から、生産販売改善協議会として鹿児島県の立ち合いの下、産地側と商社側で協議を行い、ゆりの生産販売の安定化が図られてきました。ゆりの販売体制はこの時期に確立されたと考えられます。
即ち、産地組合が取引商社を指定し、指定商社と荷造を行う集荷責任者と生産者が専属グループとして連帯感を強めた組織となってゆり生産・販売体制が整っていきました。

ゆり生産・販売の流通機構図

ゆり生産・販売の流通機構図(昭和47年当時)

 

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大福 勇
<氏名>大福 勇<生年月日>昭和27年生 <経歴>・昭和45年沖永良部高校卒業 ・昭和47年鹿児島県立農業講習所卒業 ・昭和47年和泊町役場に農業技師採用 経済課勤務 主に園芸担当 ・昭和55年農林水産省との人事交流 農林水産省農蚕園芸局果樹花き課勤務(企画班・花き班) ・昭和57年和泊町役場復帰経済課 ・平成21年和泊町役場退職 ・平成21年沖永良部花き専門農業協同組合勤務現在に至る。
2015-07-01 | Posted in えらぶゆり生産のあゆみComments Closed