えらぶゆり生産のあゆみ
【第6回】フリージアの生産状況
今回は,えらぶゆりと同様に,島の特産品として愛された「フリージア」生産の歴史を紹介します。
沖永良部島では日本復帰後、従来の自給的農業生産から収益性の高い換金作物生産への模索が始まっていました。
さとうきびは黒糖生産から大型分蜜糖工業化が進み、また,ゆりは国内外の需要が高まり,増産体制に移行していましたが、ゆりに次ぐ品目として導入されたのが、南アフリカ原産のフリージアでありました。
和泊町では、日本復帰後の農業振興策として,国や県の指導のもと、需要の見込めるフリージアの試験栽培に取り組んでいきます。
フリージアの品種も種苗商社や試験場等の協力で,多くの品種が試験栽培されていましたが、その中で”ラインベルト・ゴールデンエロ―”が有望品種として奨励されていました。
島民はゆりとフリージアの二大球根生産に熱心で、その後も色々な品種の試作を続け、フリージア産地としての地位を築いていきました。
当時,国内のフリージアは、生け花用としての需要が高く、経済成長に伴い人々の生活も豊かになり,花の需要も急激に伸びていた時期でした。
そのような需要に対応するため,フリージアの生産は、需要に見合った計画生産、計画出荷が重要であり、その為には強固な組織体制が必要でありました。
それを受け,昭和39年、これまでのフリージア組合を「沖永良部花卉球根生産販売組合」に改名し、生産指導や計画生産等の指導に取り組んでいくことになります。
しかし,当時,販売を担当する商社組合長から「フリージアの戦前の産地は父島・母島であったが、戦後は,八丈島で栽培されている。世界の花卉球根産地の中でフリージア産地の栄枯盛衰変動は大きい。」と挨拶されています。
この商社組合長は,フリージアはアヤメ科の植物で、連作の出来ない作物であることから、産地が移動することを予見していたと思います。
島内のフリージア生産が増えるに従い、畑一面に咲き誇る黄色い絨毯を敷き詰めた花の島と紹介され、えらぶゆりと並ぶフリージアの島のイメージが大きく、観光資源としても活かされるようになりました。
早春には,フリージアの香りに包まれた南の島のジョギング大会に,全国から多くのジョギング愛好家が集い賑わいを見せていました。
本島で生産される主力品種のラインベルト・ゴールデンエロ―は、大輪の濃い黄色で,甘酸っぱい香りが特徴で、全国の切り花産地で栽培され11月から6月まで出荷されていました。
フリージアの使われ方も昭和の時代、床の間の生け花や稽古花として使われていましたが、近年、オランダ産の花茎の長いフリージアが好まれるようになり、花束やフラワーアレンジメント用としての需要が高まり、ライフスタイルの変化などからフリージアの用途も変ってきました。
オランダで改良された花茎の長い品種が好まれてくると、球根生産もオランダの気候に近い産地に移っていき、現在は種子島で盛んに栽培されるようになっています。
次回は、ゆりに話を戻し、昭和52年に襲来した、未曾有の沖永良部台風後のゆりの状況にて記述します。
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